心理学エッセンス
磐座参拝記
南波 英和
京都橘大学は京都と滋賀の県境、牛尾山の麓にあって、そのすぐ近くには山科一之宮「岩屋神社」が鎮座している。仁徳天皇31年(西暦343年)を発祥とする歴史ある神社だ。
岩屋神社の本殿からさらに山を上った所には奥之院があり、そこには神社のご神体である巌が祭られている。本殿には何度か参拝していたが、奥の院にはこれまで足を運んだことがなかった。何となく憚られる思いがあったのかもしれないし、単純に山道を登る覚悟がなかっただけかもしれない。だが先日、ふと思い立って奥之院まで行ってみることにした。
本殿から奥之院まではだいたい15分ほどで、そう遠くはないのだが、途中から急に勾配がきつくなって、道も整備されたものから山道のそれとなる。木々に囲まれ、鳥の声を聴く。梢が光を刻み、影が深くなる。身体を通して、自分が異界の中へと入り込んでいくことが実感されていった。
息を切らせながらも何とか山道を進み、目的の場所へと辿り着く。ご神体は想像していた以上に大きい。斜面に対してせり出す形でそびえ立つ巌はこちらに迫りくるようだ。古代、あるいは遥かそれ以前から奉られてきた理由も分かる気がした。この場所は、古代の磐座信仰を受け継ぐ空間である。巨巌の前に立つと、なぜだか背筋がすっと伸びる。言葉では説明しがたいが、そこにただ“ある”ということが、すでにひとつの力を帯びているように感じられる。祈るほどの理由はない。けれど、この場に少し留まっていたい…。
「モノ」に神霊が宿るというアニミズムは、決して古びた宗教観ではない。モノは語らない。動かない。けれど、その沈黙は人間の心に確かな働きかけをする。偶像崇拝を禁じる宗教が複数存在することも、逆説的にモノの力の強さを物語っているように思われる。形あるものに向かって思わず祈りたくなる、その「力」とは何だろう。
ひとつには、モノがもつ“徹底した受動性”があるのではないか。モノは、何もしない。意図も判断も持たず、ただそこにある。動かず、語らず、反応しない。その極端な“受け身”の在り方が、人の心に働きかける何かを生み出しているように思われる。
心理臨床の世界でも、「何もしないこと」の重要さは指摘されている。河合隼雄は「何もしないことに全力をつくす」という言葉を残している。クライエントを変えようと急がず、分析を押しつけず、ただ“そこにある”こと。その静かな姿勢が、心の変化を生むための空間をつくり出す。
「何もしないこと」の完成形を、私たちは目の前の“動かないモノ”に見出してきたのだろうか。何も語らないからこそ、こちらが語り始めてしまう。口にしなくとも、心は動く。モノの受動性に導かれる形で、それを前にした人の主体が芽生え始めていく。物質的には断絶しているはずなのに、一段深い所でモノと人は境界を重ねていく…。
あれこれと考え始め、しかし次第にただその場に佇むようになっていた。遠くで鳥の声が聞こえる。
…どれくらいの時間がたっただろうか。吐く息が白い。ぼうっとしているうちに日が暮れてきた。一礼をしてその場を辞する。上ってきた時よりも身体が軽い気がするが、同時に肌寒さも感じる。
山道を下り、その先にあるコンビニでコーヒーを買った。機械がドリップするのを待つ間、先程までの体験をぼんやり振り返る。ご神体である巨巌は陰岩、陽岩の二つからなる夫婦岩なのだが、陽よりも陰の方が大きく迫力もあった。古代人は実は結構カカア天下だったのかなぁ…。
とりとめもないことを思う内に、ピーピーと機械が完成を知らせてくれる。出来上がったコーヒーは温かい。湯気が、暗くなり始めた山にかかった。
参考文献
河合 隼雄『人の心はどこまでわかるか』(講談社+α新書 1-1A)