ESSAY心理学エッセンス

失うからこそ得られる

失うからこそ得られる

木村 年晶

2024.01.19

#医療・福祉

「発達」を国語辞書で引いてみると、「成長して以前よりも大きくなること」とあります。実際、初期の発達心理学においても成人を完成体とみなし、そこにたどり着くまでの心身・社会的能力の獲得を中心としたメカニズムの解明に関心がありました。しかしながら、近年、発達心理学から生涯発達心理学と呼ぶことも多くなってきました。この生涯というのは、発生から死までの全ての期間を指します。
では、高齢期において、心身機能が衰える「老化」ではなく、獲得を中心とする「発達」とは何でしょうか。高齢者を対象とする研究では、「補償」という概念で説明がなされています。補償というのは、簡単に言えば「失ったものを補う」ということです。例えば、私は視力が0.1以下ですが、その視力を補うために眼鏡をかけることで、適度に見える状態を保ちながら生活できています。もし眼鏡がなければ、日常的生活の様々な場面で不便を感じることになってしまいます。
高齢期においては、認知・身体機能が低下します。しかしながら、低下した能力を補うための様々な工夫を日常生活の中で行っています。例えば、Moscovitch(1982)は日常生活の中で、実験者が指定した日時に電話をかけることを求める課題を実施したところ、若者より高齢者の成績の方が良かったという結果を報告しています。これは、高齢者が記憶の低下を補うために、メモを取るなどの外的補助を頼った結果であると考えられています。
高齢者の補償行動は、生活でのあらゆる場面、例えば人間関係の維持や自動車の運転場面などでも明らかにされてきています。こうした工夫を繰り返すことで、喪失を受け入れつつ環境との調和を保つための能力が獲得されていき、それらはやがて、人生に関する複雑な問題を解決するための「英知(wisdom)」と呼ばれるものに繋がっていきます。無論、誰もが補償行動を行ったり、英知を獲得できたりするわけではありません。そのためには、失っていく現実を受け入れる必要があります。かつてできていたことができなくなる自分を受け入れる勇気が、実は新たな発達を得るための第一歩になるということになるわけです。
これは何も高齢者に限ったことではないと思います。失敗を認めることや無力な自分と向き合うことは辛いことです。しかし、乗り越えられなくても、まずはその自分の心の有り様を見つめようとする姿勢こそが、明日の自分に繋がっていくことを示しているのではないでしょうか。

引用文献
Moscovitch, M. (1982). A neuropsychological approach to memory and perception in normal and pathological aging. In F. 1. M. Craik & S. Trehub (Eds.), Aging and cognitive processes (pp. 55-78). New York: Plenum Press

追記
この原稿を書いているときに、能登半島地震の速報が流れてきました。被害に遭われた方々に心からお見舞い申し上げます。