ESSAY心理学エッセンス

嘘つきは知性の始まり

嘘つきは知性の始まり

柴田 利男

2020.09.08

#子ども・教育

嘘をついてはいけません。
これは当たり前のことですが、しかし全く嘘をつかない、生涯一度も嘘をついたことがない、そんな人がいるでしょうか。だから人間はみな罪人であると考える人もいます。はたしてそうでしょうか。日本には「嘘も方便」という言葉もあります。

乳幼児期では、客観的あるいは結果的に事実と異なるかどうかが嘘か本当かの基準になります。年齢とともに意図的かどうか、事実との相違の程度、そして他者に与えた迷惑・損害の大きさによって、嘘を“悪い”ことと判断するようになります。つまり子どもにとってもあまり“悪くない”嘘があるということです。この頃の子どもの嘘は「遊びの嘘」と「防衛の嘘」に大別されます。

「遊びの嘘」は、ふり遊びやごっこ遊びにみられるもので、そこには騙してやろうという意図がないため一般的には嘘とは言えないかも知れませんが、現実とは異なることを想像の中で現実化しているという意味で、嘘の一種とみなすことができます。「遊びの嘘」には空想上の存在を現実と比較しメタファーとして利用するという、高度な認知能力、知的能力が必要になります。この嘘の能力によって我々は演劇や映画、ドラマを楽しむことができます。

「防衛の嘘」は、親や先生からの叱責や罰から自己を守るための嘘です。子どもは叱責や罰を予想した場合、そのような行為はなかったかのように、あるいはその当事者は自分ではなかったかのように、事態をとりつくろおうとして嘘が生まれます。児童期の終わり頃、思春期の初めくらい、12~13歳頃になると、利己的な動機や悪意の有無によって嘘を“悪”と判断します。事実に反するだけでは“悪”とはみなされず、その嘘が結果的に何らかの道徳的ルールを破ることになる場合、はじめて“悪い嘘“とみなされます。このような嘘を「道徳的な嘘」と呼びます。大人が嘘とみなし悪いことと判断するのは、この「道徳的な嘘」のことでしょう。

これらの「防衛の嘘」と「道徳的な嘘」が、嘘をついてはいけません、と言われる場合の“悪い”嘘になります。しかしこのような嘘であっても、自己防衛という目的との釣り合い、道徳的ルールの侵害の程度、どれほど意図的であったか、などの条件によって“悪”の程度の判断は変わってきます。ここでも相当に高度な認知能力、知的能力が反映されていると言えるでしょう。人間以外の生物では、生存のための擬態などの単純な「防衛の嘘」に限定されます。「遊びの嘘」によって芸術を楽しむとか、「道徳的な嘘」を“悪”とみなすことで社会秩序を維持し、また意図的な「道徳的な嘘」によって既成の社会秩序を変革していくといった行為は、極めて知性的な人間的な行為と言えるでしょう。